人材育成コラム

リレーコラム

2013/05/16 (第39回)

ちょっとした気づかいで、世の中は変えられる

ITスキル研究フォーラム 理事
フロネシス経営研究所 主宰/富士ゼロックス総合教育研究所 アドバイザリーフェロー

出馬 幹也

 Facebookを始めてずいぶんな時間が経つ。最近始めたという懐かしい友人から友達申請が届くと、「SNSというのは可能性ある良いツールだな」と改めて感じさせられる。

 そんな中で、未だに“友達申請のみ”の人が居られる。申請だけで、メッセージによる挨拶文などが届かない人ということだ。とりわけ、一度も顔を合わせたことがない、いわゆる私にとって初対面の人の場合には、“後で”ボタンを押し、ずっと保留のままにさせていただくようにしている。

 いったいどんな気持ちで、その人は私に友達申請をしてこられたのであろう?

 私のことをどこかで聞き及んだか、私の講演会に来場いただけたか、それともたまたまFacebook公開ページをみかけ衝動的に申請されたのか…。いずれにしても、私には想像することしかできない。その人のウォールにある“基本データ”をクリックしてみる…。多くの場合、メッセージを送ってこない人の特徴として、自分の情報を全くといって公開していない。であるから、私からは何もわからない。共通の友人が一人でも居るならば、類推の幅も広がるだろうが…。

 もう一つの傾向として、そのような人の友人には政治家や芸能人など、申請だけを送っても返してくれる類の人が多い(と私は思う)。ということで、やはり何もわからない。

 やっかいなのは、顔見知りであるばかりか、少し努力すれば会うこともできる人からの“無言”友達申請である。「なぜ無言なの?」と問い返したくなる気持ちを抑え、承認で返すケースもあるが、気持ちはやはり穏やかとは言い難い。

 友達申請をする場合、関係性の近い遠いに関わらず、挨拶文程度のメッセージを同時に送るべきではないだろうか。気持ちよく「YES!」と承認したくなるような文章でお伺いするほうがずっと良いのではないだろうか。それは、まさにオヤジくさい説教というものだろうか。「ネチケット」という言葉が今でも存在するかどうかは定かではないが、その類として扱われてしまうことなのだろうか。

 SNSのようなツールを使うとき、あるいはサイバーコミュニティの中にあるとき、自分自身の立ち居振る舞いを“別人格(例えば、無機質な人、または子供のような人…)”に装う人も多いだろう。しかし、挨拶をされて気分を害する人は確実に少ない。逆に、挨拶されず、無言のまま何かを依頼される、ということに違和感を感じる人はとても多いのではないか、と私は思う。

 キーワードは、ちょっとした気づかいがあるかどうか、ということだ。

 何か贈り物を送付するとき、ちょっとした手書きの言葉を添えてみる。仕事上の無味乾燥な書類を送る封筒の中に、心が温かくなる絵と言葉の送り状を入れる。それらは、少し手間がかかる、やらなくても大きなダメージにはならない−−、何となく過ぎていくようなことかもしれない。しかし、確実に送られた相手の心には響くものがある。多くの場合、自分に対する好感ということであるだろう。

 話していた電話で、営業担当のような相手が、客である自分より先に切る場面を想像してみる。何らかの事情があったのかもしれない。しかし、明らかに客としての自分の気分は一瞬にしてブルーになる。置き去られたような、ぞんざいに扱われたような気持ちになる。自分がそうされた経験を幾つかでも振り返るなら、私が申し上げたいことがよりご理解いただけるだろう。

 私が申し上げたいことの主題、それは本当に“ちょっとした”気づかいこそが大事なのではないか、ということだ。大げさな、大それたことではなく、本当にその場に小さな花を添えるような、かすかな色を添えるような、である。それらはちょっとしたことであるがゆえに、相手も受け取りやすい。大げさでないからこそ、また自分からも更なるお返しを、という堅苦しさがなく、温かくなった心と笑顔になれた喜びだけで、終えていくことができるのである。

 ちょっとした気づかいがあれば心は温かくなる。自分自身もおそらくは相手も。そのようなことが積もり積もっていくなら、人が集う場、組織、さらには社会が明るく温かくなっていく。

 世の中を変えていける力。もしかしたら、「ちょっとした気づかいがそれなのでは?」と考えてみたりする今日この頃である。

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